書評

三島由紀夫は何を遺したか

1.今日の一言と本のサマリー

今から50年前のショッキングな出来事。昭和45年11月25日、自衛隊の市ヶ谷駐屯地で、三島由紀夫が切腹。自ら命を絶ちました。いわゆる三島事件です。自らの志を持って彼が訴えたのは、今の憲法では、自衛隊は真の国軍になり得ない。ということ。

それでは、日本国の立場を危うくさせるものだとして、それを改正するために自衛隊は立ち上がれというものだったといいます。きずな出版社の社長であり本書の著者、櫻井秀勲先生は三島由紀夫の担当編集者の1人。そして親しく付き合っていた間柄でもあります。

没後50年。三島由紀夫が残したものは何だったのか?ご紹介していきます。

2.ポイント3点

日本人だけでこの国を守っていけないし、仮に米軍が加わっても、危うくなっているのではないか。平和であって欲しいのは、誰でも同じだが、しかしただ平和を唱えていて、そんな綺麗事で平和が保たれるのだろうか。

天皇制という絶対的な価値観と日本美を失っては、真の日本人ではなくなる

切腹という積極的な自殺は、西洋の自殺のように敗北ではなく、命を守るための自由意志の極限的な表れである

3.岡崎の考察

恥ずかしながら、名前は知っていてもどんな人か知らなかった三島由紀夫。本書は編集者という立場から、実体験を持って三島由紀夫の素顔を語っています。特に印象に残ったエピソードを3つご紹介する形で書評としたいと思います。

①人間が人間を信頼するときに必要なもの
櫻井先生が初めて三島邸に訪問した時のこと。当時はまだ道も狭く、車道はきちんと整備されていなかったそうです。途中渋滞で初対面に遅れたら、その後の付き合いがうまくいかないのは当然。運転手を急がせて三島邸へ。約束の時間より30分ほど早く到着したそうです。そこで三島邸の周りをゆっくり見て回り、10分前に訪問。
編集者というのは事前に話題を用意して人に会うようにしているといいます。そこで家の裏の木が素晴らしいと話題にすると、なぜうらの家を知っているのか?と警戒されたそうです。
そこで次のような趣旨で答えたといいます。週刊誌というのは、日で動くのではなく、時間または分秒で動く仕事なので、編集部全体が「十分前主義」なのだ。この瞬間から、一気に気の流れが変わり、初対面だというのに長年の友人のような気分になれたといいます。
信頼関係というものは、年齢でもなければ社会的な地位でもなく、こういった小さなことの積み重ねなんですね。

②誤診という奇跡
昭和19年。日本がサイパン島で全滅し、10月には神風特攻攻撃隊が編成され、配色が濃厚になった年です。三島由紀夫は翌年の1月には二十歳。すると間違いなく赤紙の召集令状が来る。兵隊になったら、死ぬ事は間違いない。そこで遺言状を書いています。
学習院の同級生及び先輩、次に妹と弟への遺言嫁ぎ、最後に天皇陛下万歳となっています。いちど遺言や、遺書を書いた人間は死を恐れなくなるという話もあり想像しがたい覚悟だったのでしょう。徴兵検査は1度行われ、最初の検査では合格。しかし2度目の検査で、三島由紀夫は不合格となりました。当時ひ弱な体で、ちょうど風邪をひいたため、結核であると誤診されたのが原因です。本人の心境は分かりませんが、1人の天才が救われたエピソードです。

③世界を変貌させた日
世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない。世界を変貌させるのは行為なんだ。
〜金閣寺〜
なぜ三島由紀夫は昭和45年11月25日を切腹の日として選んだのか?場当たり的な行為ではなく、非常に計画されて行われた行動であることがわかります。なぜならばこの日、遺作となった『豊饒の海』が完結しています。締め切りでもなく、恋日に合わせて完結させているのです。そこでさかのぼって調べてみると、この日を陰暦に直すと、吉田松陰の刑死の日に当たるということがわかっています。
三島由紀夫は何かの会合を持ったり、開いたりするときは、必ずと言って良いほど、何かの記念日にしたそうです。吉田松陰と言えば、大政奉還に関わり、明治政府を支えた要人を数多く出した人物。
想像ですが、この日を境に日本を支える要人が数多く生まれて欲しいという願いがあったのではないでしょうか?

名前しか知らなかった、三島由紀夫という大人物。興味ある方はぜひ手に取ってみてください。

4.気になるワード

日本人だけでこの国を守っていけないし、仮に米軍が加わっても、危うくなっているのではないか。平和であって欲しいのは、誰でも同じだが、しかしただ平和を唱えていて、そんな綺麗事で平和が保たれるのだろうか。
天皇制という絶対的な価値観と日本美を失っては、真の日本人ではなくなる
私も憲法改正論者であり、今の憲法のままでは、戦わずして日本が占領されることになりかねない、と信じている
編集者は作家に限らず、初対面の人に会うときは、必ずいくつか話題を用意する。これはもう習性と言って良いだろう。どんな小さな話題でも、その人とつながる種類のものを探すのだ。誰でも、全くつながりない人と会う時は、億劫なものだ。
こちらも信頼できなければ、あちらも信頼しないだろう。
三島由紀夫はむやみに人を信用しなかった。そのかわり一度信用すると、とことん付き合うタイプだった
小説というものは、きっちり出来上がったから傑作というものではない。真面目一辺倒の人が素晴らしい人物とは限らない、というのと似ている。
人間の運命はまぎれがある
嫌とか無理という断りには、感情が込められている。三島さんはそういう非論理的な感覚を出してくる人ではなかった。
切腹という積極的な自殺は、西洋の自殺のように敗北ではなく、命を守るための自由意志の極限的な表れである

5.商品の紹介